IE9ピン留め

<  2008年 12月   >

  • 園田苑だより 番外編
    [ 2008-12-30 21:19 ]
  • 番外編 1
    [ 2008-12-29 17:35 ]
  • 園田苑だより No.734
    [ 2008-12-24 10:08 ]
  • 園田苑だより 番外編
    [ 2008-12-21 16:37 ]
  • 園田苑だより No.733
    [ 2008-12-15 07:50 ]
  • 園田苑だより No.732
    [ 2008-12-04 18:54 ]

園田苑だより 番外編

武庫川での一人はやっぱり凍死者だった 
 今冬、3回目の釜ヶ崎野宿者支援に向かった。野宿者、いわゆるホームレス問題が口コミで広がり、園田苑の職員やボランティア、阪神医生協職員、組合員からフトン、冬物衣類がよく届けられるようになった。車いっぱいになると運ぶようにしている。前回は武庫川にも運んだ。その後に武庫川でテント内二人の死が報道された。そのうち一人はやはり『凍死』だった。しかも、園田苑地域包括支援センターの前職員、木下慎也さんが関わっていた人であった。
 私が野宿者支援に関わるきっかけとなったのは、一枚のビラだった。釜ヶ崎訪問と大阪市内の公園での野宿者聞き取りフィールドワークへの参加呼びかけだった。参加者の過半とは初めて顔を会わす。このフィールドワークを通じて、公園で出会った野宿者があまりにも若い年齢だったことに驚くとともに、野宿者の殆どが何らかの疾病を持っていたことを知った。
 さらに、冬期に野宿者が凍死している現実も知らされた。それも半端な数ではない。下の資料にもあるように大阪市内だけで年間200人を超す凍死者がいるという。
 フィールドワークで炊き出しの現場にも行った。炊き出し作業を直接手伝わず見ているだけではなんとも居心地が悪い。目の遣りどころに困る。それ以来、一人で、または苑の職員やボランティアたちと、ある時は、高齢者福祉のセミナーに全国各地から来られた人たちを誘って、俄か仕立てのフィールドワークを実施した。
 韓国の福祉系大学生が阪神各地の福祉施設で泊まり込み実習を行った時、その一環に釜ヶ崎現地研修に誘ったこともある。余談だが、釜ヶ崎に足を運べば、韓国語が飛び交う現場によく出くわす。在日韓国人のみならず、韓国からやって来た商売人が市を開いたり、クリスチャンによる炊き出しがあり、コンサートも体験することがあった。今は円高で日本にやって来るのは困難だろうが、自国のことだけでも大変なのに、いくら宗教的使命とはいえ日本の野宿者のために炊き出しをしているところに出会った時には感激した。
 釜ヶ崎には公園の周辺やガードに沿って立ち呑み屋がたくさんある。日祭日には昼間から営業している。時にその屋台のカウンター内からフィリピン人のタガログ語が聞こえて来ることもある。
 最近は、安い宿泊料を目当てに海外からのバックパッカーの姿をよく見かける。
 フィールドワークを体験して、私の出来ることは、この豊かな日本で凍死者の数を一人でも減らすことだろう。大人が餓死することはまずないだろうから、冬空のもとせめて暖をとることの出来る寝具、衣服を送ることだろう。
 釜ヶ崎訪問をきっかけとして、地元尼崎の現状を顧みることになった。政令都市を除いて、尼崎の野宿者数は全国一である。
 園田苑餅つきの日、市保護課より宿さんら二人が園田橋下の野宿者訪問のついでに苑に立ち寄り、「市は野宿状態でも生活保護を開始する」と伝えた。一歩前進である。
             2008.12.30 園田苑 中村

by nakamura_daizou | 2008-12-30 21:19 | 園田苑だより | Trackback | Comments(0)

番外編 1



  『読売新聞』の記事では、母に届けた手紙に「この手紙を読んだ時には、もう私たちは死んでいると思います。今までありがとう」と、次女の文章があったと報じている。
 20日の朝、『毎日新聞』を目にした私は、不覚にも落涙してしまった。あまりにも子供が幼いことと、その歳で「死ぬのは怖くない」と書いていたとのあたりで。
 今冬二度目の釜ヶ崎にふとんや冬服を届けた。地域の人や職員からいただいたものである。 
 園田苑で寝泊りしている17才の少女と一緒に。三角公園での炊き出しはゆうに1,000人近い人である。今日の食事はうどん、おにぎり2個、そしてバナナ一房である。少女は始めてみる風景に「家がある人には、このような人たちは想像できないだろう」と、その感想を述べた。その彼女も“帰るべき家”がどこにもないにもかかわらず、、、、      D.N
by nakamura_daizou | 2008-12-29 17:35 | 園田苑だより | Trackback | Comments(0)

園田苑だより No.734

偶然の出会いに、必然は隠されているか
 園田苑20周年の記念誌のサブタイトルは「震災を経て十三年」である。まさしく、十三年ぶりに震災時のボランティアが苑にやって来るなんて、誰が想像したであろうか。しかも、入居者忘年会の日に。これだからこそ人間をやめることが出来ない。
 昔、小中島診療所の看護婦であった広畑(旧姓岩田)さんが、現在運営しているデイサービス「千歳」の職員募集に来た女性を紹介して来た。彼女は園田苑の近くに住んでいるから、千歳と苑とで仕事をしたらどうかと持ちかけてきた。広畑さんは「彼女は園田苑でボランティアをしたみたいよ」とつけ加えた。
 いったん会う約束をしていたのだが、その日、京都で精神科医小澤勲さんを偲ぶ会があり、その後急に入ったスケジュールがあって帰苑が遅くなり、一週間遅れの12月20日に出会うことになった。
 苑でボランティアをしたことがある人はいくらでもいるから、そのことはそれほど注意を引かなかった。
 忘年会の見学がてらやって来た広畑さんが見せた彼女の履歴書をみてびっくり仰天、感激した。
彼女が福岡県立大生の時に震災救援ボランティアに来ていたのだ。その当時、園田苑は地元の桃山学院大、日本福祉大、そして福岡県立大の学生救援ボランティア組織とホットラインを結んで、阪神各地での救援活動に従事していた。
 早速、当時のボランティア一覧表を引っ張り出してきた。履歴書の名前に該当する人物が福岡県立大からの名簿にあった。3月20日から26日まで滞在した7名のグループの中に「武林さおり」とあった。
 今は結婚して姓は変っているけれど、当時大学の学生が作成して送ってきた名簿に「アッ、これ私の字だ」と、彼女は自筆のサインを見つけた。
 阪神淡路大震災の時、全国各地からやって来たボランティアの宿泊場所として、阪急武庫之荘駅南にあった尼崎市職員会館を、同じ特別養護老人ホーム喜楽園とで長期間借りることになった。会館も震災の被害を受けていたが、寝泊りするだけならば十分使えた。二施設が共同利用する予定だったが、もっぱら園田苑だけが使用することになった。震災時、園田苑は全国各地からの救援物資センターを引き受け、ボランティアの受入窓口にもなっていた。
 忘年会に夫とともに現れた福岡県立大卒の彼女の故郷は何と徳島鳴門ではないか。これまたびっくり、感動ではないか。ここまで縁(えにし)があるならば、多くの言葉は要らない。園田苑でも働いてもらうことを即決した。
 年の瀬も押し迫ってなんと言う僥倖(ギョウコー偶然の幸運)。いやはや何も言うことなし。偶然の出会いには必然が隠されているとはこのことか。これからが楽しみである。
 
産めよ増やせよ、(介護の)おじゃま虫
認知症サポーター100万人キャラバンなる運動が全国展開されている。わが園田苑にも講師派遣の要請が来る。当局肝煎りのきれいなテキストも準備されている。
 今や国民的な課題ともなった認知症を正しく理解して、認知症およびその家族への応援者を速成しようとするものである。そして認知症の人が困っていたならば「何かお手伝いすることがありますか」との声かけ運動を提唱している。しかし、「踏み込みすぎないことも大切です」と釘をさしている。(テキスト『認知症を学び 地域で支えよう』より)
 声をかけろ、だが踏み込むなでは一体どうせぇと言うのか。しかも個人情報保護法なるものが過剰に運用されている今日、介護サービスなどの利用は旧態依然として「当事者申請主義」である。この申請主義をどこかで超えなければなるまい。サポーターよりおじゃま虫を作ることかな。

これが最後の忘年会 
20日は、園田苑入居者忘年会、毎年の忘年会なれども、これが最後の忘年会になる人が、必ず5~7人はいる。
 老人ホームではこれが最後になる食事を摂られる方も、毎年同じ人数だけいる。
 いつもボランティアグループが趣向をこらして盛り上げる忘年会。
 今年はチマ・チョゴリ、琉球衣装、チャイナドレスに身を包み、それぞれの音楽に合わせて歌い踊った。
 アリランでは入居者李南治さんも歌い、涙を流して喜び、島唄ではグループハウスからやってきた里村喜代子さんが前に出てきて、本場の踊りで拍手喝采。

かたい方がいい 
最近、食が進まない楠見美與子さんだが、大好きな赤飯には目がない。
 一昨日の赤飯はオカユ風だった。それをみた職員が、昨日園田駅北の「日之出」に買いに走った。いく前に楠見さんに「オカユがいいですか、かたい方がいいですか」と尋ねると、はっきりと「かたい方」と答えた。
 今朝も赤飯に少しばかり水をふりかけ、電子レンジでチンしたものを差し上げた。
 一日に2回も赤飯を買いに行ったものだから、店のおやじがあん餅をサービスしてくれた。これもご近所ならではのお付き合い。

祖檀納骨の報告に 
「日之出」と言えば、故柏谷ヒナ子さん行きつけの店だった。
 去る11月22日、柏谷さんの「49日」を明徳寺で行った。12月1日、職員四人で京都東山大谷本廟に向かい、祖檀納骨をお願いした。
 遅くなったが、今日気になっていた明徳寺への報告がてら毎日曜日9時から行われている礼拝に参列した。
 年の瀬になると、どうしても年内にやっておかなければならぬことが二つや三つはあるものだ。

             2008.12.23  特別養護老人ホーム・園田苑

by nakamura_daizou | 2008-12-24 10:08 | 園田苑だより | Trackback | Comments(0)

園田苑だより 番外編

「小澤 勲 を偲ぶ会」に出席して 
 体調があまり優れないのを重々知りながらも、尼崎に、それも2度もお呼びした小澤勲さん。なにをおいても「偲ぶ会」には出席したい。否、尼崎人として出席しなければならない。その当時、「もう癌が脳に転移しているから、約束していた講演以外は断っている」と言いながらも、こちらの執拗な依頼に応えてやって来てくれた。今から思えば生(病)と必死に闘っていたからこそ、私たちの願いを無碍(むげ)に出来なかったのだろうと思う。
 肺癌が発見された余命1年と宣告を受けてなお7年近い生活を送られた小澤さん。入院初期の病床で骨格を練った『痴呆を生きるということ』(岩波新書)のゲラ刷を学生運動仲間の精神科医星野さんより送りつけられ、しばらく放置していたのだが、星野さんの「読んだか!」の叱責に、一気に読んで私はたちまち小澤さんに魅せられた。小澤さんは共病7年の間に5冊の著書を纏(まと)められた。
 12月14日、ホテルグランヴィア京都は200名を越す人たちが集まった。先生と呼ばれることを嫌がった小澤さんに相応(ふさわ)しく、「小澤勲を偲ぶ会」として開かれた。
 配布された資料に「1969年大学院自主退学」と記されている。1969年は全国の大学で全共闘運動が燃え上がっていた時代である。聞くところによると、学生たちの「こんな時、研究室で学問に没頭している時か」との追求の前に、あっさりと博士論文作成を放り投げ、大学院を辞し運動の随伴者となった。
 1963年医学部を卒業した小澤さんは、最初の赴任先が京都にある下町の診療所だった。そこで結核患者から投げかけられた言葉に、「病む人の暮らしが見えてこないと、医学だけではどうしようもないことがある」と知らされた。後年、小澤さんは「この時に学んだことが、私のその後の考えに大きな影響を与えた」と述懐している。
 「偲ぶ会」では医者仲間だけではなく、映画監督や僧侶、自閉症の親も想い出を語った。それぞれが予定されていた時間を大幅に越えて語ったものだから、1時間半で終わる予定が30分近くも超過し参加者相互の交流時間はとても短いものとなった。私は星野さんと旧交を温めることも叶わなかった。それでも、小澤さんの人となりと生きざまを口をかえ人をかえ聞かされ、新たな小澤さんを知ったことは幸いだった。

認知症ケアは双方の心が交叉、通底する中から 
 小澤さんが肺癌で外来治療を受けていた頃の想い出を語った主治医は、小澤さんが常々「(私は)患者である前に一人の社会人として生きたい」と言っていたことを紹介した。
 当たり前のことではないかと思うかもしれないが、私たちは日々目の前にいる患者をそのようにとらえているだろうか。
 小澤さんは「痴呆ケアは痴呆に病む人とケアする人との心が交叉してはじめてなりたつ」とも言う。
前掲の岩波新書では癌に病む自分と痴呆老人との間で「通低するものがある」とも書いている。
「交叉」にしても「通低」にしても、これは実践した者にしか理解できないことだろう。
 正面には10年前の小澤さんの写真が飾られていた。髪は黒々としたものだった。私が出会った時には、もうほとんど髪をなくしていた。それでも、そんな「壮絶な」時に小澤さんに出会えてよかったと思う。

公園でフラメンコを練習していた女性が立ち寄る 
 「偲ぶ会」に出かける直前、苑にある女性が立ち寄り、「佐藤やす子フラメンコ教室第8回発表会」のチケットを届けた。いつだったか忘れてしまったが、その女性が小中島公園でテープに合わせてフラメンコの練習をしていたのに、声をかけたのを彼女は覚えていて、チケットを出かけに持ってきたのだった。今日の今日とはいえ、この縁(えにし)を無にするわけにはいかない。「偲ぶ会」の帰途、会場の吹田メイシアターホールに向かった。
                    2008.12.14 園田苑・D.N

by nakamura_daizou | 2008-12-21 16:37 | 園田苑だより | Trackback | Comments(0)

園田苑だより No.733

ボランティアグループ“園”、県から表彰される 
 今年、園田苑は20周年を迎えた。その記念すべき年に、ボランティアグループ“園”が
兵庫県(知事)より賞を授与された。うれしいことである。県から賞をもらったのがうれしいだけではない。
 園田苑開設以来今日まで、20年間勤続した職員はわずか3名。だが“園”のメンバーのほとんど全員が、園田苑に関わり続けて20年以上になる。
 福祉施設に多くのボランティアグループが存在すれども、施設がオープンする前に結成され、すぐさま活動を開始したグループは寡聞にして知らない。
 しかも、園田苑が関与する活動に携わるボランティアグループは、“園”だけではない。グループハウスや災害復興住宅神埼シルバーハウジング、同久々知コレクティブには、震災以来のグループである。“かざぐるま”“サンライズ”“たんぽぽ”がある。そのほかにも、喫茶“きまぐれ”グループなどもあり、個人ボランティアを含めると、ボランティアなき園田苑の日々は考えられない。
 “サンライズ”は桃山学院大生のグループである。彼ら彼女たちが阪神淡路大震災に遭遇したのは、小学生になったばかりの頃である。当時、園田苑が担当した神埼仮設住宅内「ふれあいセンター」を仮設自治会とともに共同運営したのが、桃山学院大生ボランティア“太陽”だった。その学生たちの活動が連綿として今日まで続いている。これもまた賞賛に値する。
 “園”が受賞したことを記念して11月30日、デイサービスルームで盛大な祝賀会が催された。入居者の濱崎さんからは入居者を代表して感謝状が送られた。

世界人権宣言60年、園田苑開設は宣言40年 
 園田苑運営のバックボーンは何?と、韓国のどこかの大学で学生から質問されたことがあった。
「世界人権宣言です」と、とっさに口から出た。「すべての人間は生まれながら自由で、、」と、高らかに謳いあげるところから始まる前文は、第二次世界大戦の惨禍を踏まえながら、まだその余燼くすぶる1948年国連総会で採択された。
 今年も「人権週間」と銘打った行事が公民館などで実施され、駅前ではティッシュペーパーなどが配られ、行政も人権啓発にこれ努めていた。
 園田苑は世界人権宣言40年に開設された。今年は60年である。まだまだ世界各地できな臭い紛争が続き、人権侵害の最たる戦争は途絶えない。
 60年に当たり、国連のバン・キムン事務総長(韓国人)は、世界各国が「共同責任として(宣言の精神に基づいて)行動することを希望する」との声明を出した。宣言は前文の他、人種や宗教を理由にした差別の禁止などを明記した30条からなっている。
 人権宣言は約360の言語に翻訳されて、宣言の理念は90を越える国々の憲法や法律に反映している。日本国憲法もその例にもれない。第9条の「戦争の放棄」はもちろんのこと、随所に宣言の精神が反映している。認知症であろうとなかろうと「すべての国民は、個人として尊ばれる」(第13条)
社会がさらに前進するよう努力したい。       
                      2008.12.15 
特養・園田苑
by nakamura_daizou | 2008-12-15 07:50 | 園田苑だより | Trackback | Comments(0)

園田苑だより No.732

2004年、2007年に続いて再び新潟へ 
 一昨日、昨日に打って変って朝からいい天気。佐渡島の全景が見えないのは残念だが、風もない。夕闇迫る頃、ポツリポツリと降り出したと思えば、横殴りの雨となり稲妻が光り、雷鳴が轟く。29日、空港に向かうタクシーの運転手が「雪おろしの雷だ、霰(アラレ)になるかも、、」と教えてくれた。帰る日に冬の日本海の荒々しさを味わうことになった。
 11月27,28,29日、新潟県柏崎市で『被災地の輝きを目指して―新たなる支え合いを求めて―』と銘打った、災害時保健医療福祉活動推進フォーラムが開催された。
新潟県は、2004年10月と2007年7月のわずか3年の間に大きな地震に2度も襲われた。
 最初の中越地震の被災者が仮設住宅から復興住宅に移動しようとする時に、その後の中越沖地震の仮設住宅がまだ残っているという、生活再建が重複して進行している新潟に向かった。
 どちらの震災にも直ちに現地に飛んで、職員や入居者、地域の皆さんからいただいた義援金を渡すとともに、阪神淡路大震災を経験した者として少しでも果たすべき任務があるやと思い、仮設住宅を回った体験があった。今回、再び同住宅を訪れて懐かしくもあった。
 初日27日、特別講演の講師は鈴木隆太さん。その鈴木さんが声をかけてくる。聞けば彼は阪神淡路大震災にボランティアで大活躍した人物だ。ホームヘルパー養成講座で私の講義も受けたという。能登半島地震でも現地訪問した折、阪神出身の女性ボランティアが声をかけてきた事もあった。

震災での問題は、平時の問題が顕在化しただけ 
 初日のシンポジウムで「救援物資よりまず現金」と、阪神淡路の体験をしゃべった。早速、鈴木さんが『中越発・救援物資はもういらない!?』とのタイトルをつけたブックレットを持ってきた。そうか、教訓は活かされていたのだ。被災地にあって救援物資のセンターを担った園田苑の体験から、在庫一切放出みたいに送られてきた古着などの救援物資には、処分に困り果てた。
 わが国では、被災者は「どんな救援物資であれ感謝してもらうもの」といわんばかりの悪しき風潮がある。それは被災者を卑屈にさせる以外なにものでもない。「あなた被災者、私救援者との構図からは、お互い生活者としての対等な関係は生まれない」と確信している。今回の現地報告から、それが克服されていっていることを感じた。
 翌日の分科会は『被災者の見守り支援体制』に参加した。旧山古志村で生活支援に携わっている井上洋さんは、「震災で明らかになった問題は、実は日常生活(平時)でも問題だったものが顕在化しただけ」と述べ、平時の取組みがいかに大切かを力説した。まったく同感である。

人と人との出会いはいつも新鮮で感動 
 今回の新潟往きは「新潟心のケアセンター」から下間(しもつま)千加子さんが、真夏の7月28日、災害復興住宅神埼北団地を視察に来られたことに端を発している。下間さんが熱心にLSAの活動を質問されていたことが大変印象に残っている。
 今回のフォーラム後に「心のケアセンター」の人たちと意見交換をすることになった。  土曜日の休日にもかかわらず、新潟、小千谷、柏崎のそれぞれの同センターから9名も参加され、その熱意に感心するとともに、新潟県の特徴ある取組みにも触れることが出来た。
 阪神では「心のケアセンター」職員を臨床心理士が占めていた。新潟では多彩な職種で構成されている。精神保健福祉士、インストラクター、療育指導員、作業療法士、看護師、保健士などである。
 「心のケア」はわが国ではまだまだ新しい分野で、これからどのようにして定着させるかが課題であるだけに、新潟での実践が期待される。それにしても今回の新潟訪問では同地の皆さんに本当にお世話になり、人と人とが出会う新鮮さと感激を味わうことになった。
 フォーラム開催中に地震で停止していた柏崎原発の再開が報道された事も、印象的だった。
       2008.12.3 特養 園田苑(D.N)
by nakamura_daizou | 2008-12-04 18:54 | 園田苑だより | Trackback | Comments(0)

社会福祉法人 阪神共同福祉会  理事長 中村大蔵さんと「園田苑だより」の紹介ブログです


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